一般社団法人人間力認定協会

代表挨拶greeting

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」これはアインシュタインの言葉です。私たちが身に着けている「常識」はもしかして、公教育にどっぷりつかっていた18歳までに身に着けた間違った考え方のコレクションなのかもしれません。 彼はこうも言っています「私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である」

先進国20ヶ国で15歳の子供たちに行ったアンケートによると「あなたは自分のことを価値がある存在だと思いますか」という問いに「はい」と答えた日本の子供たちはわずか7.5%でした。諸外国の平均が80%以上であることを考えると非常に低い数字です。また、日本人の5歳ごとの死亡原因を調べた統計を見ると15歳から39歳までの死因トップはなんと「自殺」なのです。世界にそのような国はありません。いつの間に私たち日本人の自己肯定感はここまで下がり、生きていくことが窮屈になってしまったのでしょう。

今の学校制度ができたのは明治5年(1872年)のことです。それまで学校といえば武士の子供たちが学んだ藩校と誰でも通える寺子屋でした。藩校に通うことができるのは士族だけですから人口比率で言うと数パーセントでしょう。寺小屋は今でいう私塾で身分に関係なく通うことができましたが、その内容は自由で統一した何かを教えるという場所ではありませんでした。明治政府はなぜ学制を発布したのでしょうか。目的は富国強兵です。簡単に言うと優秀な働き手とたくさんの兵隊を作るために学校を作ったのです。しかし、これは特別なことではありません。国が行う公教育とは本来そのようなものです。つまり公教育とは本質的に国家を維持、発展させるために必要な人間を生み出すことであり、個人の幸せを追求する目的ではありません。

「教育」という言葉は2500年前の中国の春秋時代、孔子や孟子の時代に使われた言葉です。孔子の言葉を弟子たちがまとめた論語でもわかるように、教育とは簡単に言うと、人の踏むべき道を説いています。嘘をついてはいけませんよとか、お年寄りを大切にしましょうということです。私たちにとっては道徳とかしつけに近い感覚かもしれません。

人は教育によって人の道を歩みだす。つまり人としての教育がなされなければ獣にもなりうるということです。教育とは人の踏むべき道を「教え込み叩き込む」ものなのです。それに比べエデュケーションの語源であるeduceの意味は「その子の持っている個性や能力を引き出す」ということです。

簡単に言うと教育とは外部から叩き込むものであり、エデュケーションとは内側から引き出すものなので、両社は全く正反対のことなのです。明治政府が発布した学校制度は教育とエデュケーションを混同したまま「富国強兵」のスローガンのもと、偏見に満ちた学校教育制度をスタートさせたのです。 福沢諭吉はその著書「文明教育論」の中で次のようなことを書いています。

「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違《たが》わざるもの幾何《いくばく》あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず」

完全に当時の学校制度を否定していたわけですね。明治維新の後、海外に渡っていた福沢諭吉が日本に帰ってきたとき、学校をみてひどく落胆していたことがわかります。 つまり、学校とは勉強を教えるところではなく、子供たちの天与の才を妨げず、伸ばすべきところなのです。

うちの子は、ほかの子と比べて成長が遅い、勉強が苦手、授業中きちんと座っていられない、忘れ物ばかりする、なかなか字を覚えないなど、子を持つ親は数えたらきりがないくらいのこどもの不足に目を奪われ不安に襲われています。 しかし、考えてみてください。今いくつか挙げた例の中に福沢が言うところの本当の目的が含まれているでしょうか。どれもこれも本来の目的とはかけ離れたところで私たち親は心を悩ませているのです。

その原因こそが学校教育制度(学制)なのです。無数に存在する個性をいくつかの基準にあてはめ、競争を促し、評価する。そうすることで子供の才能が伸びるという間違った考えが百数十年もの間信じられているのです。長く続いた制度のせいで、先生も私たち親も、その盲信から逃れることは容易ではありません。

日本では学校にも行かない、働きもしない、いわゆる引きこもりの若者が80万人と言われています。最近ではこれに加えて中高年の引きこもりが60万人いると発表されました。自殺者の数に加え、競争に敗れたり、人間関係が嫌になったりで、社会と隔絶している人たちがこれだけいる社会は決して健全とは言えません。

いじめが多いのも当たり前ではないのです。残念ながら今の日本は障害者や社会的マイノリティに対しても優しい社会とは言えません。日本のテレビのバラエティーとチャップリンの映画を比較するとわかりやすいでしょう。どちらも笑いや涙を誘いますが、本質が全く違います。前者の根底にあるのは比較と競争です。強いものと弱いもの、賢いものと賢くないものの間に生まれるギャップの中に笑いの本質が隠されています。強い立場の人が弱い立場の人をいたぶる姿を観て、視聴者である私たちは笑っています。一方チャップリンが映画の中で作り出す笑いは、人間の滑稽さや弱さですが、その根底にあるのは愛です。

ひと昔前に「世界で一つだけの花」という曲が大ヒットしました。とてもいい曲なのですが、これを聞いて感動しているような社会ではだめなのです。この曲で言っていることは本来当たり前のことであって、これに感動するのは私たちが常日ごろ、そのことを忘れているからではないでしょうか。この曲の詩が特別なことではなく、この国のコモンセンスになることを祈ります。

競争するのではなく協力することで、また、自己のためではなく他者のためにこそ、本来人間は無限の可能性を開花させる生き物なのです。しかし世の中はなぜ競争を煽り、比較することによって劣等感を植え付けるのでしょうか。おそらく、そのほうが儲かるし、支配できるからでしょう。 そろそろ私たちの心の在り方、風潮、社会のコモンセンスを根本的に変えていかなくてはいけない時期に来ているのではないでしょうか。

大切なのは私たちひとりひとりが意識改革をすることです。まずは自分の在り方に目を向け、人生の目的とは、生きる意味とは何かを問い続けることです。そこに目を向けない限り、教育の目的にたどり着くことはできません。皆様が真の教育(発育・エデュケーション)によって、天与の才を存分に発揮し、幸福な人生を選択されることを祈ります。

代表理事 井上智之


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